『春の雪 〜 豊饒の海(一)』三島由紀夫

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)
面白かった!です。最近読んだ初期の2冊の文章も十分に堪能してたはずなのに、それらも「若さゆえのぎこちなさだったか…」と思えるほどに練りこまれ溶け込んだ豪華絢爛な文章の連続、その描写に想像力をかき立てられて、読み進むのに時間がかかりました。
粗筋を書こうとすると陳腐になること間違いなしで、話のメインは若い男女、清顕と聡子の恋なんでしょうが、彼らはほとんど美しき阿呆達としか言いようがないので、これもさておき(^_^;)。恋愛小説ではありますが、彼らは自分自身では何もできないので、周りの人間が振り回されながら泥を被ってセッセとお膳立てやら情報操作やらで奔走します。その時代の色々な階層・出自の人々が、それに応じた考え方・反応をして物語を織りなすその様が、とても面白かった。(以下、覚書。長くなってしまった…。)
この本に通底するテーマは、死・死者・死への指向性、とでも言えるでしょうか。最初に印象的な写真が出るのですが、それは日露戦役の戦死者の弔祭のもので、中心の墓標に向けて数千人の兵士が向っています。そのイメージは折にふれて出てくるのですが、他にも、清顕付きの書生の飯沼が、毎朝神社に詣でて「子供の頃から美しいもの善いものと教えられたものは…死の周辺にしかない」と嘆じる部分の描写や、清顕の友人の本多とシャムの王子達の輪廻転生を巡る問答などなど、強く印象に残ります。こういった『死』というのが、見えない力で物語を支えているようです。
これと対照的に、見える力で物語を引っ張って、私の心を鷲掴みにしたのは、実は老婆達です(^_^;)。三人の老女が出てきますが、三者三様。どれもこれも一筋縄ではいかないというか、浅薄な若造ども(というか中年以下か)を嘲笑うかのよう。一人は俗世を後にした聖職者、一人は昔の武士の気風を胸のうちに秘めて貴族化しようあがく家族と距離を置く隠居、一人は聡子付きのお世話係で二人の関係に奔走する老女。それぞれが"聖・武(過去)・俗"といった役回りで、生まれも姿も性格も立場も過去も全て異なる三人なのに、誰もが巫女のような側面を持っているのですが、同時に得体の知れなさも秘めています。悟り済ましたような尼僧すら薄気味悪さが出ているような。そう言えば、西洋の話でも、三人一組で出てくる魔女の話ってありますね。
特に凄いのが、聡子付きの老女の蓼科。最初は、人間の裏も表も全て知りつつ自分の身を弁えた献身的なばあやとして現れ、それが次には女衒になり、最後に見せる姿は『女の妄執』そのものというか、まあ妖怪ですね。(彼女の最後の登場場面で『嫣然と笑った』という言葉が使われたのには「そうそうそう!そうでなきゃ!」と嬉しくなりました。彼女の最後の台詞もいいですよ〜! 私的には、色々発覚した時のご隠居の言葉と並ぶ名台詞。)最初は清顕付きの書生の飯沼と対照をなす立場だったのが、あっという間に彼の方は仕留められて退散。飯沼は、作者の一側面が強く出たキャラかと思っていたのですが。
飯沼をはじめ、清顕側の友人達は物語中では青年組ですが、考えすぎで頭でっかちだったり純粋だったりしながら、わいわいと花を添えている感じでしょうか。(そういえば、聡子さんは対等な友人がいませんね。せいぜい老女で。だから、阿呆の清顕なんぞに惚れるんでしょうかね。)中年組はというと、特に中年女性なんか、ほとんど記号的な影の薄さ。中年男性は日和見主義だったり右往左往するばかりという感じですか。パワフルな老女に対応する老人というのがいません。しかし、清顕の既に亡くなった祖父が、死のイメージや時代の推移の象徴のような形になっています。
「死=祖父や貴族社会」、死に仕える三人の巫女、現実を受け持とうとする中年達(最終的には全て巫女達の宣託に従うのですが)、概念部を受け持つ若者達、そのどれとも馴染まず添わず、その只中で恋の徒花と散る若く美しい男女。思えば美しい構成ですよね。
死の底知れなさ、死に近い存在の恐ろしさ、というものがちゃんと残っている時代の話でもあるのでしょうが、老女が頑張る話はいいですね。私には「得体の知れない老人になりたい願望」というのもあるので、その点でも結構楽しく読めたかも。(これからは『老いの復権』が時代のテーマの一つとなるのでは。と勝手に思ってます。)




アメリカにいた頃に読んだ、John Cheeverの"The Death of Justina"という短編は、いかに『アメリカ人』化するために自分の文化的ルーツを失ってしまったか、その現れとして、いかに死を適切に扱えなくなっているか、という内容でしたが、その短編や皆とのディスカッションのことを、思い出しました。アメリカ文化では、死への敬意がなくなり、死は征服の対象になりさがっているのではないか。ただ『死』への恐怖や忌まわしさは残っており、それが無意識のうちに、老人に「独立して暮らせること」「若者同様であること」に繋がって、不幸な・無理のある状況も出てるのではないか、というようなこと。自分の母国でのお葬式の話なんかを交えながら。
『儀式』というものを、十把ひとからげに『形式』を飛び越えて『形骸』と捉える向きが、自分や自分の周囲の多くの人々(やっぱ理系の人に多いと思います(^_^;))にあると思うんですが、簡単に決め付けれるもんではないですよね。
ドイツに来てから、語学学校で若い友人の死に接したのですが、そんな異文化の生徒の集団という特殊な状況化でどう死を扱えばよいのか誰にも分からず、皆が混乱したまま、彼を悼むことも難しかったという出来事もありました。(この場合は『老いと死』という観点からは外れますが。複数文化の中での混乱でしたか。)異なるルーツをもつ人々、場所はドイツでありながら非ドイツ人が大多数という状況で、特定の宗教に沿うこともできず、結果として彼の死が中途半端に扱われることになり、悼む側には混乱と傷を残したように思うのです。
うーん、なんだか自分自身も混乱したままで書き付けただけの尻切れトンボですが、これにて終了。