Babel

Babel: A Film by Alejandro Gonzalez Inarritu (Photo Books)
さて、本命の "Babel"、良かったです。長くて(2時間半近く)、少々入り組んで、地味な描写も多いのに、全然飽きずに見続けました。アメリカ・メキシコ・モロッコ・日本が舞台で、モロッコでの事件を軸に、主に3つのエピソードが交差する構成。アメリカ人夫婦役は、Brad PittとCate Blanchett、と豪勢。日本のエピソードでは役所広司が出てきてびっくり。
映像がいいです。それぞれの国の雑踏とか。モロッコの遠景とか。映画はとても良かったですが、日本人としては複雑な気持ちにもなりました。だからこそいい映画なのかもしれませんが…。(以下、かなりのネタばれ含みます。しかも長い。)
あたかも事件が同時進行のような作りですが、時間の流れも前後して、ちょうど環状にきれいにまとまります。エピソードに感情移入して、思わずにっこりさせられるような描写が突然、別のエピソードに切り替わるのは、居心地が悪いです。しかし、この居心地の悪さ自体が狙いなんでしょうね。自分が笑っているその瞬間に、どこかで悲惨な状況で亡くなっている人が大勢いるとか、そういうことを考えさせられます。「山場で別のに切り替わる」という切り方が、似ているようだけれども、日本のテレビ番組とか「ダビンチコード」なんかの『引っ張る』のとは違うなと。
日本のエピソードは本当に必要だったのか、というのが、見ていて少々疑問だった。これは自分が日本人だからかもしれない。バランスとして、高度に経済が発達した国が必要だからなのかな。どんな水準・文化の国にあっても、色々な形での問題があるという。見ていて居心地が悪かった理由は、他の国の風景や人物の描写から、この映画は大体ステレオタイプに合うイメージに基づいているのが分かる。(あ、ステレオタイプという言葉は誤解を招くかもしれないですね。その国の風景や人物像を映し出して、十分にリアリティと説得力があります。)ともかく、日本については、やっぱりこれがステレオタイプなのねーと。金持ちの家族、疎外感、自殺、行き場のない思いをたぎらせる若者。聾唖の娘というのは、とてもとてもテーマと合致していると思うけども、そこまで必要だったのかなあ?
3つのエピソードで、日本以外は、お互いの国を訪れていたりともに行動したりと、本当に絡まっているのですが、日本のエピソードだけは過去のホンの少しの部分が接しているだけで、なんだか孤立して閉じている。アメリカ・メキシコ・モロッコ人は自国や他国で生死に関わる状況にもなるのに、日本人は生死に関わる部分も閉じている。しかも自殺と言う形で家族内に閉じている。そういったことも、現状を揶揄されているようで、居心地が悪かった一因かもしれない。揶揄じゃなくて、今の状況を描写してるだけだろうから、これは受け手側の問題だとは思いますが。
本作のテーマの一つは、明らかに色々な形でのディスコミュニケーション。なんで"Babel"がタイトルなのか、と無知な私はクリスチャンのJSに尋ねました。というのも、私はバベルの塔と言ったら、空高くそびえる建物を作り神に挑もうとした人間の傲慢さを懲らしめるために神がそれを打ち壊したという、人の不遜さと神の怒りの象徴のようなエピソードだと思い込んでたので、これが映画にあてはまるのかと。
したらば、むしろ神が塔を壊したよりも、その後、問題を起こした人間達に異なる言語を与えて世界中に散らばらせたというのがポイントだと。なぜ世界に色々な言語があるかを説明する逸話であり、つまり、異なる言語のための混乱やディスコミュニケーションを象徴するのが "Babel" であると。(なので、彼女には映画の題は謎でもなんでもなく、見る前からテーマの想像はついてたもよう(^_^;)。)こう聞くと、なんと直接的な題であることよ。そして、やっぱ西洋文化の只中、聖書の知識はついてまわるのねえ…。


(ところで、バベルの塔ってどの程度知られてるんだろう、とこれを書きながらダンナに聞いてみました。「バベルの塔って知ってる?」と、ダンナは、「くるくる回ってるやつ?」と答え、なんじゃそりゃ!とゲラゲラ笑ってたらツムジを曲げて何も答えてくれなくなり(^_^;)。でネットをうろついてたら、これのことなのね、発見!(Gustave Doré の、その名も"Confusion of Tongue"という絵。) 確かにくるくる回っている…?しかし、普通くるくるっていったら、もっと動きのある物を想像すると思うんだけども。ともかく、ここにもまた、夫婦のディスコミュニケーションの例が…。ってほどでもないか…。